2009年12月3日、「パワポケ12」発売。 [八]

20090923 パワポケ8.jpg※この文章は2006年5月に書かれたものです。ブログへの掲出も複数回目になります。写真と文章は関係ありますが、文中、説明はございません。

その会話に谷渕も口を挟む。

僕は、誰に世話になったかは覚えてるんですよ。若い頃、誰に育ててもらった、教えてもらったか、それは忘れませんて。

谷渕、遠山の二人からすれば藤岡は若い頃に世話になった大先輩なのだが、藤岡はそんなふうに言われても軽く受け流す。

え? なに言うてんの? 僕、最近はそんなに絵ぇも描いてないし、なんにもしてないよ。それは萩原も言うてましたやんねぇ。僕が絵を描かなくなったから、萩原が描いてるんですよ、彼女キャラとか。僕、女性キャラはもうおばちゃんしか描かへんから。それになぁ、チームをまとめる言うても、あの連中やろ? 僕、なんもせぇへんもん。

アルコールも入り、4人の勢いは衰えない。結局、酔う前に「パワポケ」の話をしましょうと言っておきながら、倉西の発言もどんどん「パワポケ」そのものからは離れていく。谷渕には「パワプロプロダクションについて」というテーマでインタビューをすることになっていたのだが、明確な答えを聞く前に取材を兼ねた会食はただの飲み会の様相を呈しはじめていた。ただ、彼らは今でこそ、「パワプロ」チーム、「パワポケ」チームに分かれてはいるが、常にお互いの様子を確かめながらそれぞれのタイトルを作り続けているということは会話の端々からうかがうことができた。「パワポケ」にとって「パワプロ」は必要な存在であり、「パワプロ」にとっても「パワポケ」は必要な存在なのだろうか。その関係性に確信は持てなかったが、この関西の子どもたちのつながりが、パワプロプロダクションの力の源なのだということは確かだ。

おい、もうレコーダー止めようや。もうえぇわ。

満足にインタビューもしないまま、編集長自らがオフレコを宣言した。大阪の夜は、かなりうるさく更けていった。

日本のお笑いの歴史に残るゲームソフトがあるとしたら、
それは「パワポケ」だけなんじゃないかと思う。

翌朝、13時から会社で行われるミーティングに出席するために、倉西は9時過ぎにホテルを出た。時間がないため、行きとは違い、帰りはホテルからタクシーで新大阪駅に直行することにした。倉西は、窓の外の風景を食い入るように見つめている。「楽しかったなぁ、昨日なぁ」。新幹線の座席に身を沈めて、倉西は語りはじめた。

これは前から思ってたことなんだけどさ、日本の正当なお笑いの歴史に残るゲームソフトがあるとしたら、それは「パワポケ」だけなんじゃないかと思う。こう言い切るのも問題はあるんだろうし、お笑いの正当性という定義にも諸説あるんだけど、いつの時代にも人が求めてしまう、頼ってしまう物語とか、常識とか、そういうものをちゃかすことじゃないかと思うんだよね、お笑いの本質って。そして、そこにね、はっとするような心の動き、感覚が生まれる。感動っていうと大げさだけどさ。普通のゲームにはほとんどできていないそれを「パワポケ」だけはすんなりできている気がする。そりゃそうなのかもね、あのスタッフだもんね。笑いが日常の中にあるし、長いつきあいの中で信頼しあえるスタッフもいる……みたいな? まぁ、そんなこと言ってもあれなんだけどさぁ。

この企画の最後は、実は立案された当初から定められていた。取材を終えた倉西が帰りの新幹線の中で西川に手紙を書き、その手紙に西川からの返信をもらってしめるという流れだ。倉西は、この企画を通して徹頭徹尾、身体を使うことを意識していた。普段のようにiBookに向かって文章を書くだけで、ゲームについては誰よりも自信があるという言葉を操るだけで、「パワポケ」を語りたくはなかったのだろう。だからこそ、大阪から離れて東京という自分にとっての日常に帰ってしまうまでの中途半端な、どこか現実感を喪失した時間の中で手紙を書き上げようと考えたのだ。日常からズレたところに存在するお笑い。ゲームの常識的な見地からは、ズレたところに立ち位置を持つ「パワポケ」。この企画が、ゲーム雑誌としては常識はずれに長い文章を必要としたのも、そのためだ。

想像していたよりはあっさり、倉西は西川への手紙を書き終えた。西川からの返信は、6日後の夜遅くに届いた。

西川 様

昨日は、短い時間ではありましたが、インタビュー取材に御対応いただき、ありが